男にその音が初めて聞こえたのは、地下鉄の階段だった。 最後の一段を降りたときに、ちりん、とかすかな音がした。 けれど、男は会社に行く途中だったし、おまけに遅刻しそうだったので、気にも留めず、満員の電車の中に、自分を押し込んだ。 一日働いて、くたくたに疲れてようやく帰ろうとしたとき、またその音が聞こえることに、気が付いた。 ちりん、ちりん、とかすかな音が、確かに聞こえる。 それも男が歩く速度に合わせて、ちりん、ちりん、と鳴るのだ。 不思議に思った男が、街中で立ち止まる。 耳を澄ませたが、音は消えていた。 きっと疲れているのだと思い、また歩き出す。 すると、右足にあわせてちりん、左足にあわせてちりん、と、またその音が響き出す。 一歩。ちりん。 一歩。ちりん。 気にしなければ気づかないような、かすかな音が、確かに 。 ちりん、ちりん、ちりん、ちりん。 歩くごとに聞こえてくるその音は、澄んだ音色だ。 プラチナか、薄い薄いガラスで創った小さな鈴のような、その音色が、確かに男の中を付いてくる。 歩いては立ち止まり、歩いては立ち止まりながら首をひねる男を、周りの人が一瞬奇妙そうに見つめ、そして気にも留めずに歩き去っていく。 その音は、街中を歩いているときには、…つまり、周りに雑音があるときには完全に紛れてしますような音だった。 しかし男が家に帰る頃の、薄暗い住宅街を歩く時には、ちりん、ちりん、と耳の中で主張をはじめる。 立ち止まり、男は首をひねった。音はしない。 男は頭を振った。音はしない。 街灯の下で、頭を振り回した。しかし音はしない。 男は歩き出した。ちりんちりんと、その奇妙な音は、付いてきた。 溜め息をついて、男は音を連れたまま、急いで家に向かった。 座っていれば音はしない。 ほっとして男はテレビを見て、そして寝た。 次の朝起きても、音は消えなかった。 歩くたびに、ちりん、ちりん、と確かに聞こえる。 それでも気にせず、男は会社に行った。一日働いた。そして、いつもの道で帰る。 音は、階段を下りるときも、上がるときも付いてきた。 男は気にしないことに決めた。 昼休みにさりげなく同僚に「何か鈴みたいな音がしないか?」と聞いたとき、そんな音は聞こえないぞ、と返され、この音は男の頭の中でしか聞こえないことを確かめたからだ。 男にしか聞こえないなら、男が気にしなければ、それはないモノになる。 そのまま三日、四日と経つうちに、男はある法則を見つけた。 この頭の中の鈴は、上下運動で鳴るらしい。 だから歩くときも、とん、と足を付いた瞬間にちりん、とくる。 頭を振っても音は聞こえないが、軽くでもジャンプすると、澄んだ音色が響くのだった。 まるで、右の耳の奥。こぶし一つ分押し込んだ辺りの脳味噌に、銀色の鈴がしっかり結びつけられているようだった。 男は、その音を楽しみはじめた。 元々、綺麗な音色だった。 会社まで一時間かかる道のりも、音に耳をを傾けていれば、あっという間に着く。 慣れた道は、意識しなくとも、勝手に身体が歩いてくれたので、人並みに流されるだけで良いのだ。 そのうち、昼休みにも歩き回るようになった。健康のため、と言えば社内に気にする者はいない。 昼食を取った後、階段を上り降りしながら、ちりん、ちりんという音を聞いていると、何故か満足感に包まれた。 美しいこの音色が、男にしか聞こえないという独占感からかも知れなかった。 一週間ほど経ったときには、男は隣で道路工事をしていても、頭の中の鈴に耳を澄ませることが出来るようになっていた。 時々、鈴の音を聞いていると、自分がどこか遠い世界にいるような気がしてくる。 男は休みの日も歩き回り、鈴の音を聞き続けた。 かすかだったその音は、男がもっと聞きたいと願うたび、少しずつ大きくなっていった。 りん、りん。 男が歩くたび、鈴の音が聞こえる。 鈴は、もう、周囲の雑音に負けない音になっていた。 精度も良くなって、首を上下に振るだけで、涼しい響きを奏でてくれる。 男は、聞きたくないコトがあるときには、いつも首を揺らしたり、小さく貧乏揺すりをする事にした。 そうすると、世界が遠ざかって、嫌なモノを感じることがない。 満員電車の中で。うるさい女子高生の隣で。上司が嫌味を言ったときに。 静謐な音が、男を慰めた。 前のように、くたびれた足取りで歩くことはなくなった。 どこへ行くときも、鈴が一定のリズムで鳴るように、軽くステップを踏むように歩くように心がけた。 運動不足の身体が悲鳴を上げていたが、男は満足だった。 鈴の音は、どんどん大きくなっていった。 りん。という音も、鈴と言うより、ハンドベルのように、甲高く響く。 男は、テレビを見なくなった。 見ている途中に少しでも動くと、ベルの音で音声が聞こえなくなるからだった。 何もせずにこたつに座り、頭を降り続ける。 誰が見ても奇妙な光景だった。しかしそれを見ている者など無く、男は幸せだった。 歩く体力を付けるために、食事はきちんととる。 朝起きて、のびをしたときに、りん!という音を聞くのは、何より至福だった。 雨だろうが、曇りだろうが、それだけで明るい気分になれる。 そして、軽い足取りで出かけるのだった。 動くごとに、男の中で、ハンドベルが鳴る。 次第に、他人と話すのが苦痛になってきた。上司の指示を聞いている間も、一切頭を動かすことが出来なくなったからだ。 男は、会社を辞めた。 しかし次の日も、男は朝起きるとスーツを着込み、出かけていった。 いつもの地下鉄の駅に行き、階段を、一段とばしで、とんっとんっとん、と降りていく。 頭に伝わる衝撃に、ハンドベルが合わせて鳴り響いた。 もはや、ハンドベルというより、抽選会場で乱雑に鳴らされるベルのような大きな音。 男は嬉しそうに、ホームに着いた電車に滑り込んだ。 一駅ごとに降りて、階段の上り下りを繰り返し、終点の駅で折り返す。 堪えきれない笑みを浮かべて階段を上り下りする男を、駅員が困った顔で見つめていた。 すでに鐘のように鳴り響く音を、男は楽しんでいた。 足の裏がすり切れ、革靴に血が付いても、男は毎日歩く。家では常に、頭を振っていなと落ち着かなくなった。 音はすでに、ぐわんぐわんと澄んだ音色でなくなっていたが、それでも男は音を聞きたくてたまらない。教会の鐘のような心地よさを感じていたのだ。 音に包まれる感覚。 もっと大きな音を。 もっと響く音を。 階段も、一段とばしから二段とばし、そのうちに、最後の五段を飛び降りるようになった。 飛び降りたとき身体にかかる衝撃が大きいほど、鐘は大きく鳴り響いた。 もっと、大きな音を。 毎日、男は考えた。 地下鉄ではもう、毎日の奇行をじろじろ見られるようになっていたので、遠くまで出かけて、デパートの誰も使わない階段を駆け下りるようになった。 もっと、もっと、もっと、音を。 完全な音を。 次の日、男は迷うことなくビルの屋上に上ると、フェンスを乗り越えて飛び降りた。 地面が近づいてくるのを見ているとき、男はこれ以上もなく、幸福だった。 ばぎゃごっ! 周囲の人が聞いたのは、ただのそんな音だった。 あーあ、うわあ。そう言いながらのぞき込んだ人々の目には、満ち足りた笑顔が赤い海の中に転がっている。そんな風にしか見えなかった。 |