* 障害者エッセイ *
 


 障害者についてのエッセイを、他の御方のところで拝見して、突然書きたくなりました。   海月が通っているのは一応、社会福祉学部です。
 そこは古くから障害者の受け入れをしてきた学校で、校内には様々な障害を持った大学生が通っています。
 彼らは日本全国からやってきて、大学の近くに下宿をしています。自分では車椅子に乗れないような重度の学生も、下宿生活を送っています。
 (これは、実家の近くに障害者が通える大学がなかったことも大きいのでしょうが…)
 大学はど田舎のため、ほとんど、隔離された世界です。
 そして、障害学生の生活は 同じ学校のボランティアによって支えられています。
 講義も、視覚障害学生には、後で授業のレジメが点字で配られますし、聴覚障害学生には、ノートテイクと呼ばれる学生によって、授業同時筆記が行われます。
 これは、教授の話した雑談まで、全て手元のノートに書きます。そうすることで、学生の、学生生活が守られると考えているからです。(他人が笑っているときに、一人だけわからないと寂しいじゃないですか。教授が寒いギャグ言ったときとか)
 …人間は、こんな世界も作れるんです。
 入学したときはびっくりしました。校内をふつうに、車椅子や白い杖が横断していきます。楽しそうに隣の友達と話しながらキャンパスを歩く姿は、単なる学生です。
 誰も注目などしません。それが、単なる、普通の、繰り返される日常だからです。
 近くのスーパー(野菜が高い…)でもそうです。車椅子でも、自分でできる学生は、自分で買い物にきます。地域の人たちも変な顔をしません。
 そんな世界もあることを、知って下さい。
 日本人も、そんな社会を作れるのだなあ、としみじみと思いました。
 いつからヒトは、他人を差別しないと自分を保てなくなったのでしょう。
 福祉を学ぶたび、疑問は深まります。
 どこからが障害ですか?
 足がないのは障害ですね。足首から先がないのも障害です。指がないのも障害です。(中途、生来を問わず)
 では、指の先がないのは?
 指のうち、何分の一がなければ障害ですか? 指先が三ミリかけているのは障害ですか? じゃあ、爪がないのは? 爪の奇形は?
 結局、程度の問題で、誰もが心身共に完璧であるわけでもなく、障害者である、というのは、ハンディが少し大きいから、他の人が助けましょうね、というだけのものにすぎないはずなのです。
 さて、ここまで、障害者擁護論を書いてきましたが、じつは海月は、
 けっこう障害者が嫌いです。
(↑こういうことを書くから敵が増える…)
 もちろん、障害者全員がそうだとはいいませんが、 あまえんな。
 障害があるのはそんなにエライですか。障害があるから全て許されますか。
 普段わかることをわからない振りするな。努力すれば自分でできることまで、他人にやらせるな。(昔何かあったらしい)
 まあこれは、 女だから泣いたら許されると思うな。 というのと同列なのですが…。
 話がそれましたが、人間はこんな環境も作れるのだと言うことを、みなさんに、特に障害者当人の方に知っておいて欲しかったのです。
 ちなみに、この環境が全国に広がらない原因は、福祉の職場環境の悪さです。介護ボランティアも含みますが、ともかく待遇が悪すぎる。
 実際、現場でまじめに働くと、時給が三百円くらい、というのもざらです。
 正職員で、ですよ?
 本来の勤務時間以外にもなんだかんだで時間がかかり、スタッフミーティングや御本人とのふれあいの時間など、結局そんなものになってしまうのです。
 ぎりぎり、親元にいて(家賃を払わなくて)食っていける位の人間なんて、ざらです。
 …だれがしますかね?
 うちの学生でさえ、福祉の現場に就職する率はそんなに高いわけではありません。
 まあ、まじめにやりさえしなければ、もしくは経営側からすると、もうかりますがね。
 障害者やお年寄りをたんなる仕事道具としてしか見ず、最低限の言われたことをして(たとえば何も言わずに食器のトレーを投げおいて、食べていなくても時間にはさっさと持っていって気にしない)いたら、そんなに大変でもないですが。
 どちらにしろ、日本の福祉政策に大きな誤りがあるのは間違いなさそうです。
 税金を取っていくのなら、是非とも納得するところに使って欲しいもので。こんなんだから、税金も保険料も払わない人間が増えるんですな。
 って、海月もか…(保険料)
 ま、酒税は山ほど払ってますが…。   

 

 

back