海ウサギな毎日


++ 強いヒト ++


 総一郎は、真っ白な海ウサギです。
 大きさも、ふつうのうさぎと同じくらいあります。
 だから、その総一郎がいきなりふってわいたとき、夏樹はびっくりしました。
「アンタ、なによ」
 首筋をひっつかんで、その水に落ちた、とろくさいウサギを助けたとき、
「いたいよう、はなしてよー」
 いきなりじたばたと、そのウサギが暴れ出しました。
 その声に思わず夏樹は右手をひらいてしまい、ぼちゃん、とそのウサギはプールに落ちていきました。そのまま水底でくるりと一回転して、床をけって水面にあがってきます。

「…泳いでる…」
「こんにちは、ボク、総一郎っていいます。海ウサギです」
 にっこりと総一郎が笑いました。
「…しゃべってる…」
 ?、ええと、しゃべっちゃだめでしたか?と総一郎はききました。
「別に、いいけど。そんなに酔ってんのかしら、わたし」
 夏樹は、少し頭を振りました。
 ぼんやりとはしていますが、幻を見るほど酔っているとは思えません。
「あの、ここ、どこですか? 変…、不思議な水ですね」
「ここは、プールよ。中学校のプール。水が変なのは、塩素が入ってるから」
 なんでウサギとまじめに話しているんだろう、とおもいながらも、夏樹は答えました。
 そのまま、プールサイドにもたれかかります。
「へえ、そうなんですか。えっと、およいでたんですか?」
「そうよう。水泳部員がプールで泳いで、なにか悪い?」
 その、お酒飲んで泳ぐと危ないですよ…。と、もごもごと総一郎はいいました。
「なに、教師みたいなこといってんのよ。だから泳いでないでしょ。浮いてるだけよ」
 ふきげんそうに答えます。
「…やなことでも、あったんですか?」
「何でそう思うのよ」
 ぎろりとにらんだ夏樹に、ボクの友達にもいやなことがあるとお酒を飲む人がいるんです、と総一郎が答えました。
 もっとこわいですけど、と心の中で付け足したのはないしょです。
「今時の中学生なんてねー、やなことだらけよ」
 ぱちゃりと水に浮いて、プールサイドに頭だけ乗せて、夏樹はいいました。
 そうしていると青い空だけが見えて、とてもすてきなのです。体が水に同化していくみたいです。
 このときだけ、全部を忘れて、少しだけ優しくなれます。
「教師はバカだし、あれもしちゃいけないし、これもダメだし、友達なんてもっとバカだしね」
 たいへんですね。と総一郎が言いました。いつのまにか、夏樹のとなりに並んで、一緒に仰向けにうかんでいます。
「わたしね、優等生なの」
「すごいですね」
 ときどき、総一郎の白い毛が、夏樹のからだにあたって、ちょっとくすぐったいので、くすりと笑ってしまいます。
「すごくなんかないわよ。無理してるだけ」
 じっ、と、少し薄暗くなった空を見つめて、つづけます。
「学級委員もやってるし、部長もやってる。生徒会にも立候補しないかって。優秀だからね、わたし。まわりに人も多いし」
「へえー、やっぱりすごいですねえ」
 くるり、とうかんだまま、総一郎が横に一回転しました。空は少しづつ暗くなっていきます。
「みんな、わたしが強いと思ってるわ。何でもできるって思ってる。友達も、先生も」
「えと、…つらいんですか?」
「毎日お酒を飲んで、水に浮かんでるくらいね。部長だから、最後に鍵をかけて帰るのは、わたしなの。少しくらいおそくなっても、誰もなにも言わないわ。世のなかって、そうできてるの。優秀なら、多少のわがままが許されるのよ」
 うーん、と総一郎は考えました。
「どうしてつらいのに、無理するんです?」
「無理したいからよ。他人に強く見せたいの。優しくて、かっこよくみせたいからよ。嘘の自分をつくりたいの」
 ひにくそうに言って、夏樹は目を閉じました。
 水の感触と、総一郎の気配、そして遠くから聞こえてくる人の声以外、なにもなくなります。ゆっくりと、身体がゆれました。
「無理するのって、いいことですね」
 総一郎が、うれしそうにいいました。
「うそつくのって、いいことだと、ボク思います。はじめから強い人も、優しい人もいないから。うそでもいいから、強くなろうとしてるうちに、少しずつ、つよくなれるんです」
「あー、そうね…。そんなものかしらね…」
 目を閉じたまま、夏樹は言いました。
 この見知らぬウサギにそういわれて、ちょっとうれしかったのです。
 誰かに、認めてもらえたことが。うそでもいいといってもらえたことが。
 親にも、誰にも弱音なんてはけません。好きな人に心配はかけたくないし、嫌いな人に弱みはみせたくありません。
「ボクも、友達にいわれたことなんですけどね」
 そう、そっと、総一郎はつぶやきました。
 そして、次に夏樹が目を開けたとき、もう、となりから総一郎、と名乗った白いウサギは消えていました。
「やだ、自己紹介もしてなかったのに…」
 そうつぶやきましたが、目は、さっきよりずっと優しく微笑んでいます。
「なつきー、まだいるのー?」
 そのとき、外から、友人の声がきこえてきました。
(わざわざプールのほう回ってきてくれたんだ…)
「ごめん、今行くっ」
 ざばりと勢いよく水からあがると、夏樹はバスタオルをつかんで走り出しました。

 夏樹が一度だけ、白い海ウサギにあったときのお話です。

 

 

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